人は「知育」「徳育」「体育」という三つで、成長していく。
こんばんわ!
家庭教師のヴォックスの細川です。
今日は雪が降ってきましたね><
皆さん、風邪をひかないようにうがいと手洗いをしっかりしましょうね。
勉強においては、抽象的なものを、いかに具体的にイメージできるか、これが勝負だと思います。
それには幅広い経験や体験が必要です。
身体全体を使って知る経験値が必要だと思います。
よく小さい頃から受験勉強なんてしていないで、子供は子供らしく思い切り外で遊ぶべきだ!という意見を聞きますよね?
それを聞くと、勉強ばっかりしてちゃダメだとか頭でっかちになるとか思いますよね。
ゆえに外で遊ばせる。
問題は遊ぶ「だけ」になることです。
逆に机に座っての勉強「ばかり」になる。
両極端なんです。
子供は抽象的なことがよくわからないものです。
だからできるだけ学校なんかでも具体的なものを見たり、触ったりして実感することで学ぶ。
今は学校でも映像で見せたりもしてきますよね。
紙の上でだけで覚えたり知ったりするだけじゃなく、なんとか映像を見たりして抽象的なものを具体的に捉えてほしいという試みだと思います。
そっちの方が勉強の効率も良くなりますしね。
本当は遊びの中に勉強があり、勉強の中に遊びがある。
家庭教師ヴォックスがこんなことを書くとヘンだなんて思う人がいるので、泣く子も黙る人に言ってもらいます。
「バカにならない読書術」養老孟司著
http://tinyurl.com/27xddf4
この本で養老孟司さんは書いておられます。
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脳の発達には身体を動かすことが大切ということが、なぜわかってきたか。
障害児の教育を一生懸命やっている人たちが、それに気づきました。
特に脳性小児麻痺の子どもの発達の観察からわかってきたことです。
自分で身体の移動ができない場合、かわいそうだから寝かせておくわけです。
小さいときからそうやって寝かせておかれた子どもは、実は言葉をしゃべることができない。
だから何をするかというと、とにかく自力で動けるように、と無理やりにでもハイハイを助けてやらせる。すると、次の段階でちゃんと言葉をしゃべることができるようになる。
自分の力で動きだすと、はじめて脳の入出力が大きく回り出すからです。
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養老さんは、脳の入出力について、こう書かれています。
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昔から言われているように、人は「知育」「徳育」「体育」という三つで、成長していきます。
「知育」は何かというと、感覚です。
五感です。
何かを感じる、つまり「入力」です。
「徳育」というのは、頭の中で起きることです。
五感によって入力された情報をもとに、行動を決めます。
その状況で自分がどういう行動をするか、あるいは行動をどうセーブするか。
それを頭の中で決めるわけです。
コンピュータ用語で言えば「演算」です。
最後の「体育」というのは、この演算にもとづく身体の動きです。「出力」と言い換えてもいいでしょう。この「知育」「徳育」「体育」というのは、脳のはたらきそのものと言っていい。
われわれの脳は、外から「入力」を受けて、内部で「演算」をして、それで結果を身体の動きとして外に出す、つまり「出力」する。
ここでよく誤解されるのは最後の「体育=出力」です。
身体を動かすというと、なにか運動をすることだけのように聞こえますが、そうではありません。
身体の動きは、コミュニケーションを作っています。言語も表情も。
言語は声帯や舌を動かすことだし、表情は、筋肉の動きです。
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こうも書いておられます。
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現代社会において一番足りないのは体育です。
わかりやすく外遊びのときのことを例にしていうと、都会で暮らしていたら、アスファルトとかコンクリートという基本的に同じ固さの地面しか踏まない。
しかも平坦な地面しか踏まない。
つい何世代か前だったら、山や田んぼのある土地で遊んでいました。
一日じゅう違う固さの地面をしょっちゅう踏んでいる。
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なぜ地面の固さが問題なるのかというと、
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子どもは、感覚から入って来るそういう(地面の固さの)「違い」を脳に入力し、それに従って動きを調整していく。
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固さの違う地面を踏むと、身体の動きをその都度変えなきゃいけない。そうすると頭の中にはある種の運動制御のモデルが自然にできてくる。
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だから私は、できぼこ道を歩けと、よく言っています。
足の裏から、違う固さの感覚が脳に入力され、その都度転ばない歩き方を脳で演算して、運動つまり出力する。
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「どんな本を読んであげたら、子どもの脳の発達にいいでしょうか」と質問するおかあさんたちは勘違いしていると養老さんは言います。
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順を踏んでいくことが、教育では大事なのです。
その順を踏んでいくときの一番の根本になっているのが、脳の入出力が循環するということです。
一歩でも動けば、世界は変わる。
そのことが重要なのです。
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だけど、今の人はどう思っているか。
幼いころから英語を勉強させるとか、特定のことをやらせたら頭の中でどんどんその能力が増すと思っている。
その単純な因果関係というとらえ方が間違っているのです。
二宮金次郎の伝記では、薪を背負いながら「本を読んだ」、つまり寸暇を惜しんで勉強したことを偉いと言っている。
そうではありません。
大事なのは「薪を背負いながら」の方なんです。
家が貧しく、幼いころから手伝いをさせられた。どうすれば薪を効率的に運べるか、少しでも肩が痛くならない背負い方はないか、近道はないか、幼いなりに考えたでしょう。
そうしながら本を読んだ。だからこそ、本をよりよく理解できた。「知育」「徳育」「体育」が子どものころから循環していたわけです。
もし、ずっと家の中にいて本ばかり読んでいたら、「尊徳」にはなれなかったと思います。
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「薪を背負いながら」読む。
あれが正しい読み方なのです。
その像が八重洲ブックセンターの前に建ててあるのは、つまり、意味があるのです。
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引用の長くなりついでに、養老さんが「誤解されている」とおっしゃる言葉についてもう少し。
文武両道
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学校で文武両道というと、勉強しながら甲子園に行くことだと思っている人がいるかもしれない。
昔の人なら午前中は正座して「論語」を読んで、「師のたまわく・・・」とやって、午後になったら竹刀を持って道場に出て殴り合う。
そうではなく、「論語」を読んだ結果が自らの行動になって出てきて戻るということなのです。
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「文」というのは、脳に入るほうで、いわゆる「知育」です。
「武」というのは出すほうで、つまり「体育」です。
「文武両道」とは、本来、入力した結果を身体で動かし、身体を動かすことで新たな入力を得る、という意味だったのでしょう。
ところが、いつごろからか、勉強も運動もできる、というように、別々のものにしてしまった。
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養老孟司さんの話なら皆さんもうんうんとうなづけるでしょう。
これを一言でいうと「具体的なものを見たり、触ったりして実感することで学ぶ」となるとヴォックスは解釈しています。
養老さん曰く「寝かせておかれた子どもは、実は言葉をしゃべることができない」。身体を動かさないと。
勉強も一緒。
この前も、何回繰り返してもできるようにならないという方へのメールの返信で少し書いたんですが、
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勉強における抽象的な側面を実際の生活の触感や視覚で捉えていくことも成果がわかりにくいでしょうが取り入れることです。
紙の鉛筆と教科書だけでにらめっこするのではなく、容積なら具体的に実際の容器を手に取って水を入れる、立体は立体を手に取って分解するなど、もうしているかもしれませんが具体化したものを目で見て触れてから紙の上のものの抽象的なものに臨むという姿勢も必要でしょう。
抽象的なことがわかりにくいのは子供は皆一緒です。
国語の文章題でも、抽象化された文章はまるで頭に入らない子供も多いです。
すべてを実地で経験することは難しいですが、テレビでドラマを見るというのも馬鹿にはできません。
実際に触ったことがないけれど、テレビで誰かが触っているものを見て疑似体験する。
テレビで誰かが体験している経験を見て疑似体験することだって国語の文章題を解くときに影響してくる場合だってある。
知っているものは、見たことがあるものは具体的にイメージができる。
しかし、ただ言われたこと、読んだだけのことはイメージがわかないのです。
国語が良くできるのは身体を動かして実際の体験をたくさん積んだ子供であるというのも1つの真実です。
森林伐採と温暖化と途上国がそうせざるを得ない事情を言われても子供にはわからない。
森林伐採がわからない。
温暖化がわからない。
途上国がわからない。
途上国の事情が分からない。
全部わからなければ論理的に書いてあっても子供にはわからない。
イメージできるかどうかです。
それは本当にわかっているのとは違う。
手にとって掴める感覚があるかどうか。
親子で楽しく決まったテレビドラマを見るのも1つの経験です。
ドラマだけじゃなくドキュメンタリーでもいい。
テレビのすごいところを大いに利用したらイイですね。
さらに、理解が進まない、何度やってもイマイチ頭に入らない場合、同じ方向から20回やっても、3回やったときと同じ効果しかないことがほとんどです。
繰り返しやって成果が出るものは3回、多くても5回やればたいていは成果が出る。
それでも成果を感じられない場合は、違う方向からアプローチしてみることです。
図形や立体や容積は先に書いたように具体的な立体を手に取って感じてみる。サイコロをやる時は実際に自分たちで方眼紙でサイコロを作ってみるのも同じことです・・・
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自分たちの先輩が甲子園に出たら、甲子園に出るってことが具体的にイメージできる。
東大、ノーベル賞、総理大臣、なんでも一緒だ。
勉強においてもそう。
試験には出ない雑学をよく知っている「雑学王」が勉強に強くなりがちなのは新しく習うことをその周辺の知識を伴って具体的に厚くイメージできる可能性が高まるから。
そんなふうにも思います。
逆に言うと、勉強が良くできる子はテレビでよくやっているクイズ王になりうるってことです。
高校生のクイズ王とかってたいていは全国有数の進学校の高校じゃないですか。
あれって賢いからクイズ王になったの?
ノーです(だと思う)!
クイズ王になれるくらい何でも知っているから机の上で学んでも、紙で学んでも習っていることをたいていは具体的にイメージできる、具体的にイメージできるからおもしろい。おもしろいからもっとやるとなる。
それこそが知る喜びを知っているということでしょう。
新聞だって誰でもおもしろがって読めるとは限らない。
新聞自体は概して面白くないものだけれど、そこに乗っている情報をいろいろなこととつなげて考えられるからおもしろく読めるわけですから。
「新聞なんておもしろくねーよ」っていう人は読む側に問題がある。
だからといって新聞なんかを読んでも、社説を読んでも賢くなるわけじゃない。
問題は新聞に書いてあることを自分が持っている情報とどう結びつけて考えられるか。
何も感じられない人もいれば、ただニュースを知るだけの人もいるし、ビジネスチャンスを見出す人もいる。
養老さんの「文武両道とは、本来、入力した結果を身体で動かし、身体を動かすことで新たな入力を得る」とはこういうことなんじゃないでしょうかね。
賢くなる人はどんどん賢く、アホはますますアホになる。
必然です。
勉強も入力ばっかりやってたんじゃテストでは点は取れない。
家庭の中で入力と出力を繰り返す。
ただ繰り返すだけじゃ続かない。
どう入力するか、どう出力するか、それが勉強においては工夫になる。
子供はその工夫を思いつかない。
だから親や家庭教師のお兄さん・お姉さんがちょいとその工夫を協力して手伝ってやってくださいとヴォックスでは推奨しています。
だから勝負はたやすい。
ちょび工夫すれば勝てるもの。
世の中には「工夫ってなんですか?」って人が大半です。
新聞でいえば「ただ新聞を読む。終わり」なんてね。
多くの人が子供新聞を取り始めました!って披露する。
だからなに?
新聞をどう読むか? どう使うかが大事なのであって、新聞を取ること自体に意味はない。
子供新聞を取らなくても、大人用の新聞で親が介在して新聞を読んでいる子供だってたくさんいる。
同じことです。
入力なきところに出力なし
出力なきところに成果なし
工夫なきところに勝利なし
だけど、これらの前に考えておくべきなのは、現状では「親は子供に入力したつもりになっているけれど、実際は子供には何にも入力されていない」というのが多いことです。
入力していないのに「どうして出力できないの!」なんて怒ってる。災難ですわね、子供にとっては。
なので考えよ!あなたの家での入力ってなによって!?
子供にも言うでしょ、「ちゃんと考えなさい」って。だから家庭教師ヴォックスも親に言います「ちゃんと考えてあげてくださいね」ってね。
家庭教師ヴォックスは東海地区で19年目の家庭教師グループです。